ー元大学病院職員である20代社会人の医療や福祉に関する備忘録ー

元大学病院職員の20代男子が医療や福祉の事を発信するブログです。

生活保護や既存の福祉制度では救いきれない貧困女性の実態について

生活保護制度について

生活保護制度は資産や能力等すべてを活用してもなお生活に困窮する人に対し、困窮の程度に応じて必要な保護を行い、健康で文化的な最低限度の生活を保障し、その自立を助長するものであり、現に生活に困っていれば誰でも権利として受けることができる制度である。この制度のおかげで、誰もが安心して暮らしていくことができることが保障されているため、「最後のセーフティーネット」と呼ばれている。
しかしながら、近年の総務省の統計に基づく推計において公的扶助の捕捉率は3割程度であり、実際には保護を必要とする生活状況にある低所得世帯のうち約7割が保護を受けていないということが判明している。

私の問題意識

なぜ実際には受給できていない者がこれ程までに数多く存在するのか、制度から漏れ出た貧困層はいったいどうなるのか、そして彼らを救う手立てがあるのだとしたらそれは一体何なのだろうか。
私の生活保護を巡る問題意識は詰る所、この3点に尽きる。 
私がこの問題について考えるきっかけとなった背景には『最貧困女子』という一冊の本の存在がある。
この本の中では、一人のルポライターの手によって家族や地域、制度という3つの縁から切り離され、セックスワーク(売春や性風俗産業)の中に埋没し、社会から不可視化された女性や少女たちの実態が丹念に活写されており、問題の深淵が抉り出されている。
私自身、この本を読むまでは漠然と「生活に追い込まれても最悪の場合、国や行政が何とかしてくれるはずだろう」と安易に考えていた。

だが、実態はそうではなかった。

とりわけ私の淡い期待に対し容赦なく現実を突きつけ、心に突き刺さった個所が次の部分だ。

誰かに助けてほしいが、彼女らは「制度の縁」とはそもそも相性が悪い。(中略)彼女らには「公的なものに頼っても何も解決しない・奴らは信用できない」という強い不信感や敵対意識が染みついている。
彼女らの欲しいもののほとんどを、行政や福祉は与えてくれない。

本来ならば女性の貧困は制度が救いとるものであって欲しいが、現状に私的セーフティネット以上に当事者に肌触りが良く柔軟性に富んだものを制度側が作ることは、とても可能とは思えない。

連鎖する貧困や暴力とネグレクトの果てに、どうしようもないくらいに追い込まれ、地域の共同体は無力で飛び出さざるを得ず、社会から爪弾きにされた末に、自らの姓を売り物にして生きていく少女たちを取り巻く壮絶な現実を前にして、行政や福祉が何もできないでいることに私はひどく無力感と救いようのなさを覚える。彼女らはあらゆる局面で被害者であり、何も与えられず、虐げられ社会から除外され差別の対象となる。そして、彼女たちの抱えきれないほどの痛みと苦しみは決して「可視化」されることはない。

私は、ここに既存の選別的福祉システムの限界を感じた。
専らマスコミの報道では濫給についての報道が多く、あたかも生活保護を受けることを「悪」と捉えてしまう風潮が蔓延しているという側面もある。こうした報道により生活保護受給者に対して悪いイメージ持つ人も少なからず存在するであろう。
けれども、報道されるごく一部の悪質事例だけ見て、生活保護全体をバッシングすることは、適切ではない。

現行の社会保障制度の複雑さによる手続きの煩雑性

更には『最貧困女子』で描かれているように、申請する際に行政の手続き上で出てくる言葉の意味がそもそも分からず、説明しても理解できない、不遇な生い立ちから十分な教育を受ける機会を逸していることに加え、「硬い文章」を数行読むだけで一杯いっぱいになってしまうような人々もいる。こういったことは統計データや文献資料からは見えず、その痛みは決して可視化されることはない。
また、現行の社会保障は余りにも複雑化・多様化しており、どのような給付を受ける権利があるのかが非常にわかりにくいという致命的な過大を孕んでいる。困窮している人の中には保護を受けるに至るまでの繁雑な行政手続きを極端に苦手としており、制度の周知が十分でなく知識がないために、生活保護の利用を躊躇している人も多いと思われる。

福祉行政に捕捉されることなく、支援の手に繋がることもなく、救済への斥力を有し、助ける術のない人々を一体どうしたら救えるのだろうかと思う。