ー元大学病院職員である20代社会人の医療や福祉に関する備忘録ー

元大学病院職員の20代男子が医療や福祉の事を発信するブログです。

資本主義社会における持つものと持たざる者の差について

私達は現代のグローバル経済という特定の空間時系列の下で生きていますが、国外に目を向けたところで経済成長に行き詰まり、従来の躍進を遂げることができなくなっているのは先進諸国共通の問題だとアメリカ留学を経て感じた。

つまり、メタレベルの視点で考えると日本という国が直面している課題の根幹部分には多くの国家が頭を悩ましている諸課題と共通する側面が多々含まれている。

加えて私自身が強く実感した事は、

〈此の世の中は有形無形資産に関わらず巨大なゼロサムゲームの原理によって上から下まで貫かれている〉ということ。

ゼロサムゲームとはゲーム理論の概念であり、

複数の人が相互に影響しあう状況の中で、全員の利得の総和が常にゼロになること、またはその状況を言う(Wikipedia)

身近なことで例えるならば、じゃんけんがその一例として挙げられる。
じゃんけんにおいて、あるプレーヤーが勝利すれば他のプレーヤーが敗北を被ることになる。

言うまでもなく、スポーツや利害が絡み雌雄を決する勝負事にはこの原理が適用されるが、これは恐らく他の多くの事象に関しても当て嵌まるのではないかと私は考えている。

マルクスも『資本論』で述べていたように、社会全体の資源が有限であり拡大余地のない市場では競争がより強化されれば、当然のことながら、極一部の勝者と大部分の敗者に分離してゆくのは不可避的な現象なんです。

(この場合ある時間軸上において富の総量が常に一定で不変的だと仮定しています。実際には技術革新によって富の総量自体は増え続けているが、それに伴う弊害も環境破壊や公害、エネルギー資源の枯渇など多々有る)

さらに私が強調しておきたいのは、こうした現象は物理的次元のみならず精神的次元においても紛れもなく存在するということ。

承認欲求や比較優位による充足感をある集団の構成員の全員に際限なく与えることは不可能なことがそれらを物語っている。

加えて、一見無制限に注がれると思われる“愛情”に関してもそう。

【自分にとって大切な人、大好きな存在を喪ったときの哀しみの大きさは、相手への愛情の深さや共に過ごしてきた幸せな時間の長さに比例する】

【希望が裏切られたときの絶望は抱いていた希望の大きさに比例する】

【美味しい食事を嗜める人がいる一方で、飢餓に苦しむ人、殺された畜産、化学肥料による環境破壊などによる数え切れないほどの損失を伴っている現実がある】
要するに、
《幸福と不幸は、全体の利得の総和はトータルで見れば常にプラスマイナスゼロなのかも知れない》

功利主義社会は表層では光の側面しか照らされない一方で、それらが抱える闇は想像以上に深い。
〈人間は皆平等な存在だといった美辞麗句は幻想で、いくら文明が進歩しても人類がみな等しく幸福になることなどあり得ないんじゃないか〉と私はニューヨークの街並みを眺めている中でふと思った。

仮に自分が幸福であり、恵まれていると感じているならば、それはきっと誰かの不幸の上に成り立っているという事を胸に留めておかなければいつか痛い目をみることになる。

まあでも世界は僕らの想像以上にずっとずっと広くて様々な場所がある。資本主義社会は利潤追求・効率化に向かい一つの神話で世界を覆い尽くそうとしてきたかのようにも見えるけれど、現実にはそれは物事の一側面でしかなく、世界の文節の仕方次第で様々な様態を見せる。

我々の生活は、極めて脆弱な基盤の上に成り立っていることに自覚的あるか否かで大きく変わってくる気がする。

他の誰でもない自分の人生を歩もうと思ったならば、思考停止して大勢と並んで歩くのでなく、社会が要請する圧力や参加から一定の距離を置いて、自己の責任において判断する能動的な意思決定を持つことが不可欠なのだろう。

当たり前の事のようにも思えるけれど、

〈自分自身の心ときちんと向き合うこと〉

〈一人ひとりとの出会いを大切にすること〉

この2つを積み重ねていけるかどうかで人生って大きく変わっていくんだろうな。
そんな事を都市圏から離れた田園地帯に佇む静かな学生街で感じとった。