ー元大学病院職員である20代社会人の医療や福祉に関する備忘録ー

元大学病院職員の20代男子が医療や福祉の事を発信するブログです。

普遍的正義とは

僕は時々人類社会のあらゆる場所に蔓延る差別や闘争を乗り越えられる普遍的な正義思想や論理は存在しないものかと考えたりする。

戦争や少数民族迫害、差別といった一連の歴史的な行為の背景を見てみると、どの立場が全面的に100%悪いとかではなくて各々が信ずる正義や大義名分があり、それらが衝突し合い、関係修復が不可能になって争いになるというのがよく分かる。

例を挙げると、 社会における価値観としてABCがあると仮定する。 ABCは互いに矛盾しており、どの価値判断を優先すべきかという問題に迫られる。 矛盾している状態というのは、人がAとBとCの三者を同時に成り立たせようとしても、あることを一方では肯定し、同時に他方では否定することで論理の辻褄が合わなくなる事をいう。 ここで大きな論点となるのが、1つ1つの事象を個々に改善していったとしても、それが全体としての改善に繋がるとは限らないということ。

個々の人間の相互関係に関していえば、これを正すことができるのは道徳的教育と各人の良心の働きであるが、社会的な合意形成を図った上で介入する方略に関してはこれらの範囲外の問題となる。 そもそも他者を否定しなければ証明できないような「正義」なんて本当の正義と呼べないと思うが、こういった類の問題はどれ程うまく制度設計をしても人が生きていく以上は避けられないものだと常々感じる。

 

これらの問題を解決する事を目的とした社会規範や理想的な目標がしばしば唱えられるが、 教育や理念、文化規範などというものが冷酷な現実を前にしていかに無力であるか 理性と対話によって立脚点を見つけることの困難さ 支配や優越という欲求を満たすために他者を踏み躙ってしまう人間の利己性

これらの人間に存する本源的な性向に対して現代の先進諸国の多くが掲げるリベラリズムは現実に根ざしたビジョンを提示しきれていないと思われる。 けれども現実の不合理性を乗り越えるべく我々は答えを、合理的な選択を提示しなくてはならない場面に幾度となく直面する。

 

しかしながら単に批判したり観念的に終始する理想論を唱えるだけで現状が改善される訳ではない (ただし進むべき方向性を指し示し、認識を共有化させるという点では多いに意味がある、そして時に不都合な真実よりも都合のいい虚言の方が多くの人にとって受け入れられやすい事も考慮に入れる必要がある)

綺麗事はいつだって世界中に飛び交っている。 でも世界は穢れたままだ。 ゆえに綺麗事は穢れを解消しない。

 言葉やスローガンだけが独り歩きするのではなく、それに相応しい行動を選択すること、―それには生半可ではない覚悟と犠牲を伴うのであろうが―常に理想を希求しながらも現実に即して活動していくことが何より重要な事であると思う。 何が悪で、何が正義なのか。 利害や立場が複雑に絡み合った人間社会で明確な答えを打ち出す事は不可能だ。 だからこそ普遍的な正義や高邁な理想について滔々と論じ続けるよりも、より直接的な行動ーこの世界の何処かにいる苦しんでる人に手を差し伸べられる事の方が遥かに立派で尊いことなのではないだろうか、と僕は思う。